shikaku"Ribald" c-20 (死体カセット 2010)http://www.discogs.com/Shikaku-Ribald/release/2843349ジャケット(折り返しを含む)を一見して、咄嗟に荒俣宏の「異都発掘」(昭62)を思い出した。
掲書は明治以降の西洋風、或は、西洋に伍せんと進出を図った南方都市風のごっちゃな東京の建築様式を荒俣ならではの博物学的交渉でレポートした本だ。
そこには対象への耽溺(ノスタルジー)よりかは、むしろそれらと現在(昭和62当時)との距離が先ずプレゼンされる。
そしてその距離を埋め合わせるのが荒俣のもう一つの顔、幻想作家としての筆致で、対象を自らの側へ引き寄せる事で首都はかつての幻都、いや魔都を紙の上に再生させている。
本作の平野のノイズに対するスタンスも掲書と似た者を感じる。
穿った見方をするならば、ノイズと言う形式に既に醒めているのではないか。
醒めた結果がドラムの挿入や詩の朗読なのだ、と当世音楽ライター風な穏便な措辞で終わらせても良いのだが案外、ノイズ作家ならアイデアとしてこの程度は真似できるか思いつくのは容易いのである。
それだけではあるまい。詩を引いてみる。
彼は車を病む 彼は知を病む 彼は庭を病む
無意識の降霊術
「失調オーケストラ」より抜粋
車はかつては距離を埋めていた(ネットが代替)。
知は情報のオーバーロードの中で、そして庭は(3・11)以降、取り返しのつかないほど病んでしまった。
世界は失調する。
失調はノイズだ。
失調こそノイズの領分なのではないか。
失調=ノイズ自体を詩のレトリックに置き換える事で平野はノイズを解体したのでなくノイズをレペゼンしたのではないだろうか?
"無意識の降霊術"ここに平野のノイズ形式に対する無意識な思想が胎動していると感じるのは邪推が過ぎようか。
平野には
個人的感動が凡て詩になるのではない ポエジーとしての感動のみが詩なのだ
実感がすべて詩であるのではない 詩的実感のみが詩になるのだ
という富沢赤黄男の言葉を送っておく。
-個人誌"俳句と随筆"より許可を得て抜粋